パーソナルカラーの歴史
パーソナルカラーの起源については、諸説ありますが、おおまかな流れは次のとおりです。
1923年には、アメリカのロバート・ドアがブルーアンダートーンとイエローアンダートーンを基本とした調和論を発表、これを基にした、カラーキィプログラムによるコンサルティングが行われるようにないり、パーソナルカラーの起源となりました。
ブルーとイエローのアンダートーンで全ての色を2つに分けた、このロバート・ドアの2分類法から始まって、ヨハネス・イッテンの調和論の考え方を取り入れて、4シーズン分類法が編み出されていったようです。
ヨハネス・イッテン「色彩論」
※ヨハネス・イッテン:1919年ドイツの造詣学校であるバウハウスに「色彩論」の著者であるヨハネス・イッテンが色の指導者として参加しました。
彼の「その人が好む配色や色彩は、その人の外見的特長や性格と一致する」と言う考え方をもとに、春夏秋冬の四季の色は誰にでも思い浮かべることのできる分かりやすいイメージだと言う理由でパーソナルカラーは4つに分類されることとなりました。
☆参考 >> 「ユニバーサルカラーインスティテュート」インターナショナル公式HP
ブルーベース・イエローベースの色彩調和論を唱える教育機関の公式サイト
1960年代アメリカでは、政治家がこぞって、カラーコンサルタントを雇い、有権者に与えるイメージを戦略的に作り上げてゆきました。
1980年になると、アメリカでは、ゲリー・ピクニーが4シーンズン法により、ファッションアカデミーにおいて「カラー・ミー・ビューティフル」という講座を開講しました。 キャロル・ジャクソンはパーソナルカラーの教本「カラー・ミー・ビューティフル」を出版し、この本は日本では1983年に翻訳版が出版されています。
アメリカでビジネスとして発展したパーソナルカラーコンサルティングは、1980年代に、日本に紹介されました。
当時、パーソナルカラーに関心を持った人々が渡米して、アメリカでパーソナルカラーを学び、日本に持ち帰ってカラースタジオを設立し、活躍するようになりました。
カラー・ミー・ビューティフル
1986年 佐藤泰子による「カラーミー・ビューティフル」(キャロル・ジャクソン監修)が出版される。のちに、「カラーミー・ファッショナブル」「カラーミー・サクセスフル(男性版)」「カラーフォーキッズ(子供版)」が出版されました。
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化粧品メーカーもパーソナルカラーシステムに関心を持ち、ノエビア、ポーラ、カネボウ、ファンケル、などの各社がカラー分析の研究開発に力を入れてきました。
パーソナルカラーのスタジオが次々と設立される中で、他社との差別化を図るため、カラーパレットの分け方を変えたり、名称を変えたりと独自色を打ち出していったため、統一感がなくなり、スタジオによって、分析結果が異なるといったことが出てきました。
また、分析結果そのものは、同じであっても、その人の魅力をどこに重点を置くかは、どうしても、コンサルタントの考え方に左右されていくため、そういったことからも、コンサルタントによって、異なる結果が提示されるということも起こりました。
初期の4シーズン法で仕事をはじめたカラーコンサルタントたちは、分析を行う中で、4シーズンでは割り切れない思いを抱くようになり、そこから、さらに独自の分類方法をあみだしてゆき、パーソナルカラーシステムは多様化してゆきました。
日本人の肌色や嗜好に沿って、繊細な中間色が加えられたり、タイプ分けを細分化したりして、独自のカラーパレットの開発も進められています。
この様にシステムが多様化してゆく中で、
1997年には、日本色彩学会パーソナルカラー研究会が発足し、研究発表が行われるようになりました。
現在では、3つのパーソナルカラー検定が行われています。
・NPO日本パーソナルカラー協会主催「色彩技能パーソナルカラー検定試験」
・一般社団法人 日本カラリスト協会主催「パーソナルカラリスト検定」
・日本カラーコーディネーター協会(J-color)主催「色彩活用パーソナルカラー検定」